柱と神社。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

柱と神社

柱と神社

神社にはもと建築物というようなものは何も建っていなかった。仏教が入ってきて、立派な仏寺の建物に対抗するために神社が建てられるようになった……これはしばしば言われていることである。

沖縄に行くとこの事がよく分かる。沖縄では建築物がない。「うたき」という名の森厳な場所だけがあり、そこが神の聖地といわれる所になっている。

日本の内地でも元はそうであったろう。時に神木が立っていたり、岩倉という大きな岩が置かれていたりした。岩倉は明るい所でなく、鬱蒼と木が茂って暗く、いかにも身のひき締まる思いのする所にあった。神木も年ふり、いかにも神が宿っていそうな感じがする巨木が選ばれ、時にしめ縄がはってあったりする。

しかし重要なことは、神はそこに常住しているわけではない。神ははるか遠い所からやってくると信じられた。「常世(とこよ)」というその神の居場所は、日本人にとって「もとつ国」、「ははが国」に当り、それは遠い海の彼方にあると信じられていたのである。

伊勢の皇太神はもと伊勢の地方神であった。この神は壬申の乱で権力を勝ち取った天武天皇の時に宮廷に取り込まれ、天孫民族の信ずる太陽神となった。

伊勢の皇太神宮には、以後天皇の妹や娘が斎宮という名の巫女となって派遣されるほどの深い関係を保った。

同じく皇室と深い関係を持つのは京都の賀茂の神である。これは朝鮮から移住して京都に根拠地を持っていた帰化人たちの地方神で、京都に遷都が行われた時以来、皇室に取り込まれ、同じく斎宮が送られるようになった。

京都の南方、山崎の地にある岩清水八幡宮も重要視され、その祭りには多くの侍臣が奉仕した。この神は九州の宇佐に本宮のある宇佐の神で、天皇家が九州から奈良、さらに京に移った時、山崎の地に勘請された。道鏡の事件があった奈良時代、和気清真呂が派遣されて神託を聞いたのはこの宇佐の神である。

伊勢の神は二見が浦の方角からやってくるものと信じられたが、出雲の神も西方の海からやってくると信じられた。神座は西方の海を向いている。これは神を奉じた出雲族そのものが、西の海の方角から移動してきて、出雲に上陸し、そこを根拠地としたことを物語る。

出雲大社はかつて高い建物が建てられていたらしい。それは「心の御柱」を中心にした建築物であったことが、発掘されて明らかになっている。伊勢神宮の場合は棟持柱(むねもちばしら)が心の御柱に当たる。

諏訪神社には心の御柱に相当するものは見当らない。御柱と称するのは神社の四方に建てられる四本の柱である。建てかえ祭は七年毎に行われる。諏訪神社はこの四本の御柱(おんばしら)に囲まれた所を神域としている。御柱は神が降臨する地であることを明示するための標である。

諏訪の神ももと海の神であったことがはっきりしている。初め出雲に本拠を置いていた出雲族が、やはり後からやってきた大和の天孫族との争いに敗れ、その大部分は大社を建ててもらって引退したが、一部は従わないで日本海から糸魚川街道に沿って、諏訪湖にまで到達し、そこに根拠地を置いた。途中穂高にも同系の神を信奉する一族(穂高神社)が根拠地を作ったが、これは諏訪の水神を祭る者と関連する同族であったろう。穂高神社の宝館には大船が置いてある。神はこのような船に乗って穂高の地に着いたのである。諏訪湖北方の春宮、秋宮という諏訪大社の下社は、「お船祭り」という年二回(四月、八月)の遷座祭を行っているが、これは神の乗物がやはり船であったということを物語る。

諏訪神社の本社は諏訪湖南方の上社である。前宮(まえみや)、本宮(ほんぐう)がそれで、前宮は四社の中で最も小さいが、これが諏訪神社の原初の形態であったと思われる。前宮で四本柱の役割をするのは四方に植えられた樹木であって、もとこれは朝鮮系のものであることが明らかである。周囲には「あお」の名を持つ古墳もあり、創始者は銅の精練をも伝える古代の技術者集団であったと思われる。その名は「もれや」と言い、神官の家柄を今に至るまで維持していた。

諏訪にやってきて神社を建てたのは、中国の長江上流に端を発する稲の水耕栽培(約六〇〇〇年前〜)の技術を持ち、朝鮮を経て日本に移ってきた一族であったろう。稲の栽培には水が重要である。従って諏訪の神は水の神の性格をも保っている。下社の存在がそのことを物語る。日本に大陸から種々の文化をもたらし、先住民である縄文人と混血して、日本人となったのはこうした大陸からの帰化人であったろうが、日本人の大部分は弥生時代文化を受け入れた縄文人であったと考えるべきである。

神は最初は海からやってくるものと信じられていた。伊勢の神も、出雲の神も、海辺の生活に本拠をおく海人と関係の深い民族の信ずる神であったろう。しかし住民の住居が海岸近くから内陸に移るにつれて、神は山奥からやってくるものと信じられるようになった。従って、祭りの時、神主は山奥から神を招き下ろすようになる。

諏訪大社の御柱の材料は周囲の山から切り出される「もみ」の大木である。途中「木落とし」などという、わざと乱暴な道中を経て、縄をつけてゆっくり引きずってくる。この御柱の曳行は、周囲の住民が大変な栄誉をもって行う。

これに対して、神社の建物そのものを二十年に一回建て替える伊勢神宮の場合は、ご用林から切り出される檜が使われ、車に乗せて大切に運ばれてくる。この木材は神社の棟持柱(むなもちばしら)の材料として使われるから、諏訪神社の御柱とは用途も考え方もまるきり違う。諏訪の御柱の背後を見るとわかるように、皮がむけていて、いかにも荒々しく原始的な感じがする。お船祭りも船の形をした神座を、車を使わずにただ引っぱってくるのであるから、諏訪には車という便利な道具に対する強い無視意識があるように感じられる。伊勢の神社と諏訪の神社と、両者とも古い時代の形態を維持しているが、柱に対する考え方の相違からして、これらを*奉戴する人たちは別々であったろうことが想像される。

*奉戴(ほうたい):つつしんでいただくこと