胃手術の歌。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

胃手術の歌

胃手術の歌

(胃カメラ診断)

「大きなポリープがあります。できれば…」その先は何を意味するか?

(宣告)

「入院手続きをして下さい。胃の大部分を切り取ることになります」
そんな重大な事をなんで軽々しく言う?

(待機)

寝巻に洗面具、保証金、整えて待つわれに、病院からは何の音沙汰もない。
一週間、二週間、不安を重ねて待つ一月、「あす入院して下さい」

(入院、検査)

点滴をつけてよろよろと歩く老人、自分もそのうちああなるのか?

(手術前日)

「癌が見つかりました。初期癌です」……今はもう諦めて何も言わない。

(手術後)

いつの間に終ったのか、薄暗き集中治療室にわれはあり。
うとうとと心地よく眠るわが意識、確かめるごとく、名を呼ぶ看護婦の声
看護婦の大声の度に、痛み起きて、ああその声を今は止めてよ。
麻酔未だ覚めざるごとし。甲高き奇声を挙げる隣の患者。
奇声とうなり声と叫喚の乱れ飛ぶ、地獄模様の集中治療室。
断続してつきあげるこの堪え難き痛み、もうどうするすべもない。
看護婦のかん高い声、靴音、すべてに反応するわが腹の痛み、想像を絶するこの痛みよ!
痛み起こる度に全身収縮し、ただ唸り声たてて耐えるのみ。

(病室にて)

喉に鼻に腕に管は通りて、身動きならぬ悲しき患者われここにあり。
啖つまり、声なく伏せるわれをせかし、歩かす、看護婦の白い顔。
看護婦は見ているだけで何の手も貸さない、非情さ。
よしさらば痛みこらえて独りで立つか。
よたよたとかがまり歩くわが姿、妻はそれをどう見ていたろうか。
痛み起らば深呼吸せよという、われを助けて妻もまた深呼吸せり。

(術後六日…痛み和らぐ)

点滴の針ちくちくと腕に刺さり、身体中に浸みわたる薬剤。
点滴の漏れて腕ぱんぱんに腫れ、看護婦の「やーだ」の声に驚く。
腹ふくれて痛し。中に何もない腹がなぜこんなに痛いのか。
ふくれた腹からガス静かに漏れ、手をたたいて喜ぶ看護婦のうれしがり。
重たくのしかかる傷痕(きずあと)、はきそうな気分、このままの時間をただ耐えるのみ。
悲しいと思わないのに、ひとりでに、ひっきりなく滲み出る涙。

(術後七日…流動食)

小さくなった(五分の一)胃は存在感なく、空腹感なくて食欲も起らない。
味のない重湯、生ぐさいスープ、ただ義務的に飲んでいる。
目に見えて体力つき、見舞い客に安心させられるだけが嬉しい。
ほんの少しの重湯とスープ、それでも飲めばきりりと痛む胃がそこにある。

(術後九日)

いきなり三分粥、かまぼこ、ほうれんそう、果物。こんなに変わっていいのか?
三十分かかって丁寧に食べよという。十五分たつうち疲れて横になる。

(術後十二日、胃に通る管を取る。髪を洗ってもらい、疲れて寝込む)

五分粥と鱈と野菜の煮付け、皆くたくたに煮て、味もそっけもない。
腹帯の下に癒えて、腹まで続く傷痕、そこまで切って胃を取り出したのだ。

(腹帯を取る。そろそろと入浴。十九日目に退院)

まだ鉛の板のような腹が重い。が、これでようやく一安心。家に帰れる嬉しさ。