熊野古道を歩く。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

熊野古道を歩く

(一)

私は今年(2002年)5月、長年心の中に溜めていた、「熊野古道を歩く」という念願の一部を果たした。熊野には熊野本宮、新宮速玉大社、那智大社の三山があり、かつて江戸時代は「お伊勢参り」が多くの庶民の参詣を受けて賑わっていたように、それ以前、平安時代後期から室町時代まで長期間、熊野参りが爆発的な日本人の信仰を受け、法皇、上皇、女院(にょいん)、貴族から武士、庶民に至るまで、「蟻の熊野詣で」とまで言われるような、大賑わいの歴史的現象を起こしていたのである。

私は熊野の三山巡りは既に済ませてはいた。ただそれは、多くの人たちと同じように、那智勝浦の温泉宿に泊って、バスでの参詣(さんけい)をすますというような、現代的な安易な方法であって、昔の人たちがかつて経験したような、「古道」歩きの困難な信仰の道はとらなかったのである。

かつて古道は険阻な山道で、本宮はその深い山道の奥に鎮座していた。しかし昔の人たちはそうした山道歩行の困難さを避けて、熊野川の水路を舟で朔行(さくこう)するという安易な方法を取る場合もあったが、水路は経済的に大変であり、真実の信仰の発露にはならない、という気持の妨げもあって、やはり山道の歩行が必要であった。

熊野参詣には、

  1. 伊勢から海岸ぞいに新宮まで行って本宮へ(伊勢路)
  2. 堺、紀伊、田辺を経て海岸沿いに新宮から本宮へ(紀伊路、大辺路(おおへじ))
  3. 高野山から峠越えして本宮まで行く(小辺路(こへじ))
  4. 紀伊路を経て田辺から本宮まで行く(中辺路(なかへじ))
等のルートがあるが、このうち歴史的には中辺路が山道のなかでは途中平坦なこともあって、多くの人に採用されてきたので、私はこの中辺路を本宮から田辺まで一部歩いてみようと思いたっていた。それは私自身、急速な体力の衰えを感じていて、きつい計画ではやり通せないと分っていたからである。それに今は平坦な中辺路古道と平行して、バス道も通っているので、出来る所まで歩行に挑戦し、疲れたらバスかタクシーを利用しよう、家内も同行してくれるので、何とかなるのではないかという、楽天的な考えをもって気軽に望んだのである。

(二)

5月21日 東京池袋午後 9時発高速バスで新宮へ。便利な乗り物があった。

5月22日 熊野新宮午前 8時着 本宮行バス10時発

新宮で時間があったので、浮き島(池の中に浮かんだ浮き洲(す))へ10分くらいで行けると聞き、それを見ようという家内の勧めに従って歩いて行った所がなかなか行き着かず、道を聞いても間違えて教える人が多くて、新宮の人は不親切だなと感じながら、ようやく疲れて入り口に達した時はバスの時間が迫っていた。無駄足でそのまま引き返したが、この浮き島は江戸時代、上田秋成の雨月物語(巻の四、蛇性の婬)の舞台となった所であることに気がついた。

バス本宮跡11時着。なぜ跡かというと、明治22年洪水にあって、神社の建物はすべて流され、広大な宮地に芝生だけが残ったからである。なるほど、背後には熊野川が滔々と流れていて、神韻標榜たる古代的な神座の要素を備えているものの、これでは洪水が起ったらひとたまりもないだろうと思った。

だがこれが昔から神聖な神のそこに存在していた所であり、過去の時代すべての参詣者の尊崇を集めてきたのかと思って、しばしそこに佇んで、時の移るのを忘れる思いであったが、信仰とはこんなものだったのかという軽侮を感じて、正面に回ると、壮大な鳥居が建っていた。人はただの跡地に、なぜこんな大きな鳥居を建てたのだろうか。

新しい神社はすぐ近くの山の上に建てられていた。しかし、 300段の石段が続いて、山上はごく狭い。そこに設けられた四つの神座はひしめきあっている。私はそこに宮居を移した人たちの、これならばどんな洪水にも耐えられようという、あまりもの用心深さに恐れいって、石段を早々に降りた。しかし石段は老年の身にとって降りるのが大変である。ゆっくりとおりてみたが、半ば過ぎる頃に足がもつれて、そう重くもない背中のリュックサックに身体を引っ張られ、しばしば後ろにひっくり返りそうになるという醜態を演じ、それが可笑しくて妻と二人で笑った。妻は私を支えて助け起してくれたので、有り難かった。

午後2時 バスで湯の峰温泉に着く。そこの一番良い温泉宿に申しこんでいた。なぜかというと、前から小栗判官と照手姫の名は知っていて、中辺路は小栗街道と呼ばれ、湯の峰には小栗判官が湯治したという岩風呂が残っていたからである。私はそこの宿に泊って、思い出を残しておきたい。

小栗判官のことは、江戸時代の説教節で当時の人に知られている。小栗判官は、許婚者照手姫の実家である相模の豪族横山一族に毒殺された。しかし閻魔大王のもとから娑婆にもどされて蘇生し、口もきけず、手足も不自由な盲目の「餓鬼阿弥」とされたが、藤沢の一遍上人によって、土車に乗せられて熊野本宮の湯の峰に送られた。上人は、その胸札に「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書いたので、沿道の人々は土車の綱を次々に引いた。美濃の青墓の宿に売られた照手姫がおり、この土車を大津から五日間も引いたという。湯の峰の温泉で療養した判官は49日後に元の身体に戻り、京都に出て出世し、照手姫にも再会したという。

説教節には庶民の念願が表れている。かつて当時同じような盲人がどれくらい多くいたことか。こうした社会的弱者を助けることが、熊野権現のご利益にあずかることと信じられていたのである。一般の女性もまた弱者であった。高野山は女性の参詣を禁じていたが、熊野権現は女性の参詣を拒まなかった。これが熊野信仰の爆発的人気を得る元となった。また「餓鬼阿弥」とはすさまじい形相と身体をもった病人のことで、これは癩者であろう。そこには癩者をも救う権現への信仰が存在していたのである。

その昔、湯治客が入ったという素朴な小屋がけの壺湯はすぐそばの川中にあった。一人入ればいっぱいの小さな温泉は、岩の湯壺がくりぬかれただけであり、昔の様子が窺われてよかった。誰でも皆そこに交替で入って、幸福を神に祈ったのだ。私は壺湯にも入り、宿の湯を懸命に飲んだ。お陰で私の頑固な便秘は帰りの新幹線内でみごとに解消した

5月23日宿の賢明な娘さんが、その日のルートを印刷しておいてくれた。私はそれに従って、バスに乗って小広王子で下車し、山道に入る。かなり険阻な山道で、登り下りがひどく、これぞはるかな昔、この道を一列になって歩いた、蟻の熊野詣でなのかと思って、相当時間を経たところで、この先どれくらい大変な思いをすることやらと、心細く思っていたら、途中田辺方面からきた壮年の男性グループに追いつかれ、そこで私のとった道は全く逆の方向であったことを教えられた。

少し惨めな思いで引き返すと、無駄足をした距離はたいしたこともなく、分岐点に帰って、よくよく案内版を見返すと、なるほど間違っていたことがわかった。ただ何方面かということが少しも書いてないので、わからないままに何となく本宮方面への道を選んでいたのであった。

「王子」というのは熊野権現の御子神というので名がついた小祠(しょうし)である。それはもと日本の何処にでもいると信じられた路辺の小さな魂魄であった。人は目に見えぬそれに簡単な弊帛(へいはく)を贈り、旅の安全を祈った。その後、修験道の山伏たちの勤行の場となったが、後に先達(せんだつ)(案内人)たちの休憩所となり、同時に参拝者たちへの奉仕の場となった。

道路沿いにはヤマアジサイが多く花を咲かしていて、心細く疲れた身を慰めてくれた。田辺方面への道は整備されていて、自動車も通れる平らな道路である。山道とのあまりもの違いに違和感を覚えて、秀衡桜(ひでひらざくら)、野中の清水まで来ると、俄かにどっと疲労を感じて、横になって身体を休めたくなった。しかし何処にも休める場所はなく、昔のお遍路さんはこんなふうにして行き倒れになったのかと思った。しかし行き倒れになるわけにはいかないから、私は体力をふりしぼって、中辺路をそれ、バスの駐車場を探して行くと、はるか下の広い舗装道路上にあった。腰を下ろして休んでいると、時間表にない田辺行きのバスが不意にやってきて、安心した。思いがけぬ助け舟のように感じた。

トイレ休憩などとって、バスは田辺駅までかなりの時間を走り、着いたのは 5時である。ホテルのハイカラな名(ハートピア田辺)を忘れて、交番にまで聞きに行き、タクシーに乗って、やっと料金の安くて簡便なホテルに行き着いた。客は少なく、広々とした浴槽は思い掛けず温泉であった。温泉であることに妻は無性に喜んだ。

5月24日 和歌山〜新大阪〜東京(新幹線) 3時着。早すぎる到着である。

熊野は多くの部分が開発されて、随分と変っていた。しかし私の歩いた山道は熊野に唯一残された古道であったようだ。私はこれで小さな満足を得たとしなければならない。

小祠・・・律令制で1日だけ潔斎(けっさい)して行う祭祀
潔斎・・・神事・法会などの前に、酒や肉食などをつつしみ沐浴をするなどして心身を清めること。
弊帛・・・神に奉献する物の総称。
秀衡桜・・継桜王子社から約100メートル東の道端にある大きな桜。
     秀衡桜は、奥州の藤原秀衡が、生まれたばかりの子を滝尻の岩屋に残して熊野へ参る途中、
     ここで杖にしていた桜を地に突き刺し、それが成長したものだという伝説がある。