伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「明治維新を見直そう」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

明治維新を見直そう

明治維新を見直そう・・・「会津士魂」(早乙女貢)を読んで

集英社の文庫本で13巻もあるこの大作を読もうと思ったのは、何年も前の事からであった。暮から読み始めて正月にようやく八巻まで読んだ。以前テレビで、下北半島に流された会津藩士の、薩長への大変な恨みが述べられているのを見ている。それとまた江戸の薩摩藩の先頭に立った西郷隆盛は、崩れかかった幕府を戦争(鳥羽伏見の戦い)に踏み込ませるために、江戸市中の放火や押し込み強盗を企てた。その目的のためには手段を選ばぬ政治性の問題は、西郷評価の点からいって私には前々から許せない問題として心にひっかかっていたのである。

この本の読書によって、前々から疑問に思っていた私の明治維新への歴史観は、はっきりとした展望と大きな転換を迫られることになった。鳥羽伏見の戦いの時、徳川御三家の筆頭である尾張藩や春日の局を生んだ淀藩の稲葉氏は真っ先に幕府を裏切り、老中であった大阪城代までが城の開門を拒んだという事実に、まずもって衝撃を受けたのであるが、なかんずく早乙女氏は幕末の浪士たちの革命思想を明確にさばいてみせている。幼稚で軽佻浮薄な脱藩浪士らの狂った思想によって、外国人打払いや、攘夷倒幕に反対する多くの要人が斬られた。しかも倒幕は戦国時代からの長州の幕府への恨みから始まっていたのである。高杉晋作などは要領のよい軽薄な才子であり、坂本龍馬は口達者な策謀家だときめつけているが、これには異論があろう。反対に京都守護職となって治安のために働いた松平容保を、氏は徳川宗家への限りない忠誠者として褒めちぎって居り、結果として会津が薩長によって朝敵の賊名を着せられたのを残念がっている。新選組は京都の動乱を未全に防ぎ、戊申戦争で奮闘したことを評価している。皇室に対する会津の忠誠を信頼した孝明天皇は、長州と手を結んだ三条実美、岩倉具視らによって毒殺された。こうした陰謀はだれしも許せまい。明治幼帝は薩長のために木偶にされ、会津征討令を出して愚かな内戦を招く結果を招いた。正義は姿を消し、政治的な陰謀が勝つことになったのである。

徳川慶喜は気紛れ者でしっかりした信念に欠け、徳川家を投げ出してしまった。保身しか考えぬ身勝手で、立派な将軍とは言えぬと非難している。

このようにして、倒幕のためなら天皇を利用し、都合が悪くなると殺してしまうような連中によって明治維新は打ち立てられ、多くの元勲といわれる人たちの都合のよい思想によって成立されて、到底人民の幸福のために成立した革命とはいえない。その矛盾は維新後におこった各地の士族の反乱に表れており、とくに西郷隆盛を先頭にした西南戦争は、醜い権力闘争の破綻を示している。これは私も同感である。

しかし勝海舟が腰抜けだとして非難している点については、異論がある。幕臣でありながら何等幕府の側にたって働かなかったというのであろうが、勝は早くから国家の方向を見定めて幕府を見限っていた点で、榎本武揚や小栗上野などの幕臣とは全く違った開明性を持っていたのだと思う。

誤った明治維新の政治性は、こうして日本国家を今日まで危険な方向に導いてしまうという危険性を持っていたのではないだろうか。日本人民の幸福を犠牲にした帝国主義的思想は、日清日露の浮かれた戦勝気分によって国力を過信し、危険な太平洋戦争に突入する過ちを犯す結果となった。この過ちは維新の指導者たちが幼少の明治天皇を利用したのと同じやり方で、昭和に入っても、薩長に育てられた軍部によって天皇の権威を借り、遅れた軍人思想を盛り立てる方向に駆り立てていったと私は思う。

いま、歴史の見直しは最も必要な課題ではないだろうか。長い間私たちは誤った教育によって指導され、日本の正しい方向を見定めることができないできた。しかし日本の敗戦はどこまでさかのぼって歴史の見直しをすることができるか、それだけでなく、我々の周囲を見回して、それがどこに起因しているかを検証することが大切ではないかと私は考えるのである。

2008/1/25