伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「日本は騎馬民族によって征服されたか?」の話、世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

日本は騎馬民族によって征服されたか?

日本は騎馬民族によって征服されたか?

「古代の日本は、かつて北方系の騎馬民族によって征服された事がある」 と言ったら、日本人は「まさか」といって疑うだろう。しかしこれは紛れもなく、戦後間もない時期(昭和23年)に、東大教授であった江上波夫氏によって提唱された仮設である。北方とはモンゴルの北、バイカル湖の付近であろうか。その地方に遊牧民として活躍していた勇猛な騎馬民族は、南下して朝鮮の南部に根拠地を置き、北九州に侵入して、瀬戸内海の各地を席卷し、強大な倭の王朝政権を築きあげていった、というのである。

当時の日本には背の高い大きな馬はなく、乗れば脚が地に届いてしまう小さい馬しかなかったので、このような騎馬民族に打ち勝つことなど出来るものではない。四世紀前半の弥生時代の頃である。日本の各地は稲作による生産力を増し、富を蓄えて紛争に明け暮れていた。しかし五世紀に入るといきなり巨大な前方後円の古墳文化時代に入る。なぜそのような力を持った権力者が出てきたのか解らない。しかし何かそこに必然的な理由が働いていたに相違ない。特に五世紀後半になると古墳の副葬品の中に馬具(埴輪)が混じって出土してくるのである。そこでここに騎馬民族の侵入を当てることができるのではないかということも理解できる。

この説が発表されると、歴史、考古学者たちはみな驚き、批判や反対論を唱えた。その中の一人、当時歴史民族博物館の佐原真氏は、「日本と大陸との間には、対島海峡があって隔てられている。この海を渡るには大きな馬を多数載せられるような大船を用意しなければならないが、当時そのような記録は見当らない」といって反対した。しかし征服説はいう。当時の古代日本は朝鮮半島の南部に任那という根拠地を持っていた。騎馬民族を統率したのはミマキイリヒコという名を持つ崇神天皇であり、ミマキはこの南鮮のミマナの王であったことに由来する。キは城で、堅固な国のこと、イリヒコは日本に侵入した男、ミマナを根拠地とし、大きな馬に乗ってやってきた偉大な英雄という意味であるという。

ミマは御馬(立派な馬)ともとれるが、ミマキをミマナに当てられるかという事はすぐには決められない。ミマキは御真木(ひのき)に当てるべきで、ミマキイリは美称であるという異論もある。

戦後どんどん発展してきた考古学から検討すれば、騎馬民族征服説は今、全く証拠がない。尊敬される考古学者の一人、森洪一氏も、考古学の立場からいって神武天皇の東征神話と騎馬民族征服説は重ならないという。上田正昭氏もその点は同じである.発表された当時は画期的な学説と思われた征服説も、今は顧みる考古学者が居なくなってしまった。

考古学は歴史の科学的な証拠となる学問であり、今後考古学の立場からする意見は尊重されねばならないが、征服説は魅力に富んだ仮設である。

日本人はどこからやってきたのか、その故郷はどこであったのかという疑問は、常に我々日本人の心から消え去ることがない。私はいつも思うのであるが、裸になってまげを結った西洋人の相撲取りは、よくやっているなと思う一面、おかしい挌好でもあるから気の毒に思うのである。しかしモンゴル人の相撲取りの髷は違和感がない。日本人がなかなかなれない横綱のモンゴル人など実に立派で、すばらしいと思う。これはモンゴル人に好意を持っているからで、彼らは日本人とあまり変わりがないのである。

歴史上ではしかし、蒙古の侵略は危ない所で挫折した。もしも神風が吹かなかったら、日本は恐ろしい大虐殺の悲劇を被るところであった。(世界の各地で、ジンギスカン後の蒙古軍は大虐殺の恐ろしい過去の歴史を持っている)私たちはそうした歴史も知っていながら、まるで忘れたかのような状態でいる。日本はその昔、本当にモンゴルに征服された歴史を持っていたのだろうか、その事実は今後学問の発展によらねばならないが、私はモンゴル人への親近感を今後も続けて行きたいから、征服の歴史などなかったことになってもらいたい。歴史の真実をまげることはできないが、平和を好む日本人の一人として、そうであることを願うのである。

2013/5/20

雑談・・・伊勢絵と源氏絵

先日、出光美術館に行って物語絵を見てきた。金箔で飾った六曲の屏風絵は豪華であったが、嵯峨絵という伊勢物語と源氏物語の挿絵を載せた活字本の嵯峨本に注目させられた。京都の嵯峨で豪商の角倉家が出版した本である。こうした活字本は高価であるが、世によく普及したために、江戸時代に伊勢、源氏物語の知識が広まったのだろう。業平の東下りで、業平が隅田川で都鳥を見て、「いざこと問はん」の歌を詠む場面など、もっとも一般的な庶民の知識だったのではないだろうか。八橋のカキツバタ絵など最高に興味がある。見学者は女性が多く、ソファーは満席で最大限に疲れてしまった。