Oak - 聖なる樹木。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

Oak - 聖なる樹木

Oak - 聖なる樹木

一、金枝篇に描かれた樹木「槲」

私がその「槲」という樹木についての知識に初めて触れたのは、今から何年も前(1993)のことである。それは金枝篇…「The Golden Bough」(189O-1914)という書物の中に書かれてあり、著者はSir James George Frazer(1854-1941)でケンブリッジ大学の人類学教授である。この本とは私が学んだ大学の最初の授業で出会った。著者フレイザーは全13巻からなる膨大な資料の大部を、抄略本にして出版(1922年)し、私が読んだのはこの抄略本の日本訳(永橋卓介訳、昭和 26,27年版、岩波文庫 5分冊)である。しかし当時はなかなか手に入らず、すぐには読めなかった。後に購入し、自ら必読本ときめて読んだのであるが、内容については何のことかほとんど分からず、いつも第一冊目の途中で読書を放棄していた。ようやく全体を通読できるようになったのは退職してからであった。

そうはいっても、じっくり読んでよく理解したわけではない。特に最初「槲」なる漢字でこの樹木の名が出ているが何のことか分らず、これがすべてのつまずきのもととなっていた。漢字辞典でみると「かしわ」となっている。しかし私が知っている柏とは何ら結びつかず、当時の貧弱な私の読書力では全く見当がつかなかった。「かし」とも思ったが、日本のシラカシ、アラカシ、イチイガシ等の常緑樹の観念とは全くあわない。仮名がふっておらず、ようやく5分冊目に至って訳者は「かしわ」とかなで語訳したが、私にはやはり理解できないでいた。

後に読んで分ったことであるが、呉茂一の「ギリシァ神話」(昭和54初版)によると、ゼウスの神格を象徴する聖樹として王槲があり、その葉のそよぎによって神意が占われていたという。またデメテールの社(やしろ)の森には神聖な槲の大木があって、これを切り倒したテッサリアの王は飢餓の罰(食べても食べてもひもじくてならない)を受け、最後は自らの肉を食って惨めな死を遂げた、とある。

退職後、私はアメリカやヨーロッパの各地を訪れることができるようになった。私は特にトロイの遺跡の地にあったこの木の葉と実を実際に目で見て、遅まきながらようやく理解できるようになった。帰国後、植物図鑑や金枝篇(Golden Bough)を再読吟味し、ようやくこの木についての正体が理解できるようになった。この本に書かれた「槲」または「かしわ」と書かれている樹木は、なんと日本には全く存在しなかったのである。だから私はそれを目で見ることができず、従って理解することもできなかったのである。

海外旅行をして、目で見ることができるようになるまで、私が長い間理解できずに苦しんでいた理由は、もちろん私の迂遠さ……はっきりいえば読書力のなさによるが、直接的には植物学上の知識の貧弱さに基づくものであったろう。しかし、私の理解を阻んでいたいちばん大きな理由は、実は別な所にあったのではないだろうか。それは我々日本人の狭い国際性に基づいている。本を読んだだけでは肝心なことは何一つ分らない。実際に足を運んで、外国のそうした現物を目で見ることがもっとも大切なのである。それは前々から感じてとってはいたが、この時やはりそうだったのだとはっきり認識できたのである。海外旅行をして、目で見ることができるようになるまで、私が長い間理解できずに苦しんでいた理由は、もちろん私の迂遠さ……はっきりいえば読書力のなさによるが、直接的には植物学上の知識の貧弱さに基づくものであったろう。しかし、私の理解を阻んでいたいちばん大きな理由は、実は別な所にあったのではないだろうか。それは我々日本人の狭い国際性に基づいている。本を読んだだけでは肝心なことは何一つ分らない。実際に足を運んで、外国のそうした現物を目で見ることがもっとも大切なのである。それは前々から感じてとってはいたが、この時やはりそうだったのだとはっきり認識できたのである。

欧米人には長い歴史をかけて自明の理であった一片の知識が、世界の片隅にあって、外国の事情を何も知らぬ狭い国土の日本に育った、特に植物専門外の私には、今になって欧米に行ってみて、ようやく少しく理解できるようになった。そのような長い文化の歴史の差によるものであったろう。

二、欧米の「オーク」

アメリカ西海岸地方には、いくつかの国立公園が存在する。その中の一つ、ヨセミテ渓谷から上った高地に、地上100メートルにも達する世界最高木のセコイアオスギの森林があり、1841年に測定された例によると、高さ133m、根元の周囲36m、樹齢3000年を超える樹がある。また30センチもの長い松ぼっくりをあちこちに落しているシュガーパインなる樹木も林立している。この木は、夏期落雷した火によって葉先が焼かれ、小さな松ぼっくりの実がはじけ散って子孫を残すという、不思議な繁殖の方法を保っていて、このような樹木はほとんど世界に類を見ないのではないかと思う。しかしアメリカ西海岸の平野部の方に下りてみると、至るところにオークの木が生えている。オークランドという都市名も残っていて、ニュージーランドにも同じ名の都市があるが、これはアメリカ西海岸のこの地の人たちの移住によるのだろうか)、もともと此処にはオークの木が繁茂し、他の植物をよせつけない土地であったのではないかと想像される。アメリカ人たちのかつての西部開拓(フロンティア)は、一つにはこうした強固な植物と戦うことでもあったのだろう。

このオークの葉の大きさを日本のカシワの葉と比べてみると小さい。葉辺には日本のカシワの葉に似た深い切り込みがあるが、それもまたずっと浅い。植物図鑑で調べてみると、ブナ科コナラ属のヨーロッパナラまたはオウシュウナラ(学名Quercus robur L)という名がついている。図鑑などにより正確にいうならば、南イタリアとバルカン半島原産のクエルクス・ファルネット(Quercus farnetto)というのが、正統種を占める名であるという。最低 400年から 500年は生き、人間が切り倒してしまわなければ、樹齢はおそらく2000年にも達し、幹の太さはおよそ9メートルにもなるという。イングリッシュ・オークというのが英語の一般名であった。アメリカの現地の人に聞いてみると、ライブオークという名で呼んでいる。

私はオークという名は樫(かし)の木の感覚で、常緑樹であると信じていた。しかし、実は純然たる落葉樹であった。有名なイタリアに在住する日本人女流作家のS氏も簡単に著書にそう書いているが、それは誤りである。同じ地中海のカシのなかにも、セイヨウヒイラギカシ(アカガシ亜属)というのがあって、これは常緑樹であるが、オークのように大木とはならない。私と同じくS氏を誤らせたのは、樫が日本では最強の木であるという固定観念ではないかと思う。S氏のような著名な文化人でも、専門外になると誤ることもあるのだ。

万葉集の東歌をみると、 下野(しもつけ)のみかもの山の小楢のすまくわし児らは誰がけか持たむ (訳)下野の三毳山(みかもやま)に生えているコナラのように可愛く麗しいあの女の子は、だれと結婚するのだろう。
と謡われていて、コナラの若芽の日本的な優しく麗しい姿が称えられているが、同じコナラ属の落葉樹でもオークの若芽は日本のコナラとは全く違う。コナラの若芽は柔らかくて美しいが、同じ形を持つオークの葉は裏表にびっしりと白い毛を生やし、硬くて厚く、まさに樫の木の感覚なのである。日本でこの木に相当するかと思われるのは、コナラではなくミズナラである。ミズナラは日本の山間部に多く、高さも30mに達するが、ことさらに強い樹木という感じはない。日本で最強の感覚を持つ木はやはり樫なのである。だから私は長らく槲という文字に表された樹木は樫ではないかという疑問から逃れることができなかった。

このオークの性格を特徴づけたのは、日本とまるで気候が違う所に育ったことにある。日本は海洋性気候で、夏に雨が多く、冬は雨が少ない。一方アメリカ西海岸や地中海周辺ではこれとまったく逆で、地中海性気候といい、雨は夏に少なく冬に多い。それで葉も材質もオークといわれるような堅い樹木に成長する。オリーブ(モクセイ科)や月桂樹(クスノキ科)も同じくこの地中海性気候によって生育した常緑樹である。

さてこの地中海性気候は、もちろんヨーロッパの地中海を支配する気候である。ヨーロッパに行けば、この樹はあちこちに見ることができる。ベルリンには、南西部ポツダム寄りにウンター・デン・アイヒェンの並木がある。アイヒェンは英語のオークに当たる。この並木は移植したものであるが、私はライン川沿いやドイツの湖の近くの地に多くのオークを見かけた。シシリー島では四月にアグリジェント古代神殿の谷の入り口で、白い羽毛に覆われたこの木の若葉を見た。なかんずく十月、トロイの遺跡を訪れて、どんぐりをつけたこの木の枝を見ることができ、そのどんぐりの巨大さに感動した。ミズナラのどんぐりは長さ18ミリであるのに対し、オークのどんぐりは35ミリもある。

日本では寺社の境内に、かつてのふるさとの樹木が残っていることがある。トロイはギリシャ本土のミケーネと戦って敗北を喫したが、今なおこうした木の繁茂する環境にあったことが分り、植物は何千年を経ても正直に古代の姿を写しとっているのだということを知って、言い知れぬ感動にうたれたのであった。

私はまた、トルコの近代革命を実現し、近代国家をつくりあげたことで、トルコ国民の父(アタ・チェルク)とうたわれているケマル・パシャの墳墓を訪れたことがある。その棺を覆う台の上に、金属製の実の意匠を付けたオリーブのデザインのサークルと共に、その片方に金属製のオークの実のついた木の枝のレリーフが置かれてあるのをまざまざと見た。

私はまた、トルコの近代革命を実現し、近代国家をつくりあげたことで、トルコ国民の父(アタ・チェルク)とうたわれているケマル・パシャの墳墓を訪れたことがある。その棺を覆う台の上に、金属製の実の意匠を付けたオリーブのデザインのサークルと共に、その片方に金属製のオークの実のついた木の枝のレリーフが置かれてあるのをまざまざと見た。

オリーブは昔から豊かな生産のもたらす富の象徴である。それと並んでどんぐりをつけたオークの木の枝のレリーフで墓を飾ったというのは、どう考えたらよいのだろうか。

三、聖なる樹「OAK」

オークはかつては聖なる樹として厳しい掟に守られていた。古くて逞しいこうしたオークの樹を、必要もなく伐った者は死刑に処せられたのである。古代人は、人類以前に地上に現れたオークの樹が人を生んだと信じていた。アルカディア人は、自分たちは人間になる前はオークであったと信じていたという。こうした聖なるオークが古代ギリシャほか多くの地方を覆っていた。そのような植物の風土を破壊していったのは、移動する羊、牛、馬などの放牧や無計画な伐採などである。普通はオークという英語名で呼んでいるのは、材質が堅くて樫のように強いためであったろう。

オークを装飾用の冠(かんむり)としても使った例もある。前記マケドニアの英雄アレキサンダー大王の父フィリップ2世の王墓とされる古墳の史料館の中には、この木の葉と実をデザインしたりっぱな金冠が保存されている。この金冠は輪が大きいから、実際に使われたのではなく、王の死後、その頭を飾るものとして棺の上に置かれたのであろう。

生前に実際に使われた例もある。ローマの初代皇帝であるアウグストゥスには、市民冠をつけた肖像がある(塩野七生著「ローマ人の物語6」)。この市民冠はまさにこのオークのどんぐりと葉をデザインしたものである。同上の塩野氏の本によれば、アウグストゥスは月桂冠の冠よりもこの市民冠を貴んだという。アウグストゥスはマケドニア金冠にみるオークの歴史的な性格を貴んだのではないだろうか。

私はまたアメリカのヨセミテ渓谷の売店で、ライブオークの木の葉をかたどった金属のイヤリングを買ったことがある。その製品についている紙片には、「0ak Strength and Wisdom」と書かれてあった。この木の性格は強さと知恵の象徴にあったのである。アウグストゥスはスポーツの優勝者や戦勝の将軍にかぶせられる月桂冠よりも、実質的に強力な王者の観念を持つ植物の冠を好んだのであろう。

四、ゼウスとオーク

ギリシァ北西部エペイロス地方には古代の神託所(テスプロティア)があった。古い歴史書によれば、そこにはゼウスに捧げられたドドナの聖なるオークの樹が立っていた。その樹の下で、巫女たちによる神託が伺われた。この神託所はゼウスの聖所であり、紀元前6〜5世紀頃まで栄えて後、徐々に衰退し、デルポイの信託所に後を譲ったという。ドドナの聖なるオークの樹は、ゼウスの信託を望む者が近づくと、身を震わせる。それによって巫女たちがゼウスのお告げを伝えるという。他の予言の方法もある。いくつかの青銅の鍋が吊されていて、風にそよぎ、お互いにぶつかりあって音を発する。その音響は明らかに雷鳴を想起させ、雷神であるゼウスの発するものと考えられた。

巫女は三人居り、彼女らはこのようにしてゼウスを育てていたと言い伝えられている。 これらの信仰はエジブトから古代ギリシァに入ったものであり、聖なる森にはもともと神殿などなかったそうである。日本でも、もともと神社の建築というものはなく、沖縄の例を見ても分るように、そこには森厳な森とか岩に囲まれた聖地があるだけで、それらが神域とみなされていた。青銅の鍋による予言も、古代ギリシァ人の侵入する頃にはなかった。ゼウスの信仰も、それ以前は女神ディアナ(森全体の女神)の信仰の後に起ったのであろう。ディアナはオークの樹の王であるイクシオンの妻と同一視されている。(イクシアは宿り木の意。ジャック・ブロス「世界樹木神話」)この王はフレイザーの金枝篇によれば、儀礼によって殺された。もともと古代の王は本来儀礼によって殺されるという歴史を繰り返してきた。

ドドナではゼウスはデイアナを娶(めと)ったと言い伝えられているが、これは征服の歴史を現している。征服民族は古くからの聖地を奪い、自分たちの神を祭るが、先住民たちの神を排除することはしない。相手が女神なら征服者たちは自分たちの神の一人と夫婦にさせるのである。この強制された結婚に女神が抵抗すると、力づくで犯すのだ。ゼウスが多くの動物に姿を変えて、女を奪ったという伝説が伝えられたことはこのことを表している。

四、ゼウスとオーク

ギリシァ北西部エペイロス地方には古代の神託所(テスプロティア)があった。古い歴史書によれば、そこにはゼウスに捧げられたドドナの聖なるオークの樹が立っていた。その樹の下で、巫女たちによる神託が伺われた。この神託所はゼウスの聖所であり、紀元前6〜5世紀頃まで栄えて後、徐々に衰退し、デルポイの信託所に後を譲ったという。ドドナの聖なるオークの樹は、ゼウスの信託を望む者が近づくと、身を震わせる。それによって巫女たちがゼウスのお告げを伝えるという。他の予言の方法もある。いくつかの青銅の鍋が吊されていて、風にそよぎ、お互いにぶつかりあって音を発する。その音響は明らかに雷鳴を想起させ、雷神であるゼウスの発するものと考えられた。

巫女は三人居り、彼女らはこのようにしてゼウスを育てていたと言い伝えられている。 これらの信仰はエジブトから古代ギリシァに入ったものであり、聖なる森にはもともと神殿などなかったそうである。日本でも、もともと神社の建築というものはなく、沖縄の例を見ても分るように、そこには森厳な森とか岩に囲まれた聖地があるだけで、それらが神域とみなされていた。青銅の鍋による予言も、古代ギリシァ人が侵入する頃にはなかった。ゼウスの信仰も、それ以前は女神ディアナ(森全体の女神)の信仰の後に起ったのであろう。ディアナはオークの樹の王であるイクシオンの妻と同一視されている。(イクシアは宿り木の意。ジャック・ブロス「世界樹木神話」)この王はフレイザーの金枝篇によれば、儀礼によって殺された。もともと古代の王は本来儀礼によって殺されるという歴史を繰り返してきた。

ドドナではゼウスはデイアナを娶(めと)ったと言い伝えられているが、これは征服の歴史を現している。征服民族は古くからの聖地を奪い、自分たちの神を祭るが、先住民たちの神を排除することはしない。相手が女神なら征服者たちは自分たちの神の一人と夫婦にさせるのである。この強制された結婚に女神が抵抗すると、力づくで犯すのだ。ゼウスが多くの動物に姿を変えて、女を奪ったという伝説が伝えられたことはこのことを表している。

五、古代ケルト人の聖樹

フレイザーの金枝篇や他の植物神話の書物によれば、古代ヨーロッパはこうしたオークの木の密林で覆われていた。またゲルマン人の最古の聖所は自然の森林であり(グリム)、ケルト人、ゲルマン人、スラブ人等すべての古代ヨーロッパ民族は樹木崇拝を行っていたという(日本にも樹木崇拝は同じ)のである。それら農民たちアーリア人の夏至における、今なお守られている火祭りには、このオークが聖なる木として焼かれてきたという。その木が何百年もの寿命を誇り、高さ30〜35m以上にも達するということが聖なる木として信仰された元となったのであろう。古代ギリシァでは、最初に創造された木とされ、ヘブライ、スラブ、ゲルマンの神話でも神木として崇められてきたそうである。

特に古代ケルト人の樹木崇拝はよく知られている。古代ケルト人の宗教儀礼では、ドゥルイドという宗教家が、巨大なオークの木の枝に着生した宿り木を黄金の鉈で切り落とし、屠(ほふ)られた(生け贄)白牛と共にケルトの大神に捧げたという。宿り木は他の樹木にも着生するが、宿主はオークであることが要求される。これはこのオークが神木として以前から信仰を受けていることによるからであろう。

日本にも巨木信仰はある。サクラ、クスノキ、スギ、マツ、タブ、イチョウ等の中には何百年の長寿を保ち、神木としての信仰を受けているものがある。しかし特定の種類の木についての信仰はない。それと比較すると、オークへの信仰は強固な宗教観に基づいていると考えられる。そしてこうした巨木信仰は現代ヨーロッパ人の意識の中にも受け継がれているであろう。

古代ケルト族の宗教儀礼においては、夏至の火祭りに、かつてこのオークを摩擦させて火を起し、燃料としたとフレイザーは書いている。そしてこのような火祭りの本質的な特徴は、樹木霊の表象である人間を焼くことであったと、驚くべき古代の風習について言及している。オークの化身であり、樹木霊、植物霊として扱われたという生きた人間(イタリアのネミの森という聖所の祭司)もこの時焼かれ、祭りの犠牲となる。ケルトのドルイドがこうした祭りの司祭者であった。カエサルはその著ガリア戦記に残酷なこうしたケルトの風習を記している。

宿り木は常緑樹であって、オークに着生し、宿主が落葉した後もそのまま青々と残っている。そのことから、古代ケルト人たちは、この宿り木をオークの生命を宿すものとみて崇拝した。樹木の生命なるものを切り取れば、残った木の生命は失われるであろう。それ故宿り木を切り取ることは、強力なオークの生命を奪い、樹木霊を殺傷することになると考えられた。切り取った宿り木は聖所の祭司に投げ付けられ、祭司の生命が奪われた。著者フレイザーは、ローマの南東部にあるネミ湖の森に残る伝説と、古代ローマの詩人ヴェルギリウスから、往古、この土地のディアナを祭る聖地に立つオークを守る祭司が森の王と呼ばれ、自分を襲いにくる後任者から身を守らねばならなかったという恐るべき風習の伝説をもとにして、呪術から宗教、科学へと発展した人類の壮大な歴史観を構築したのである。

西洋の神話や伝説に疎い日本人の私たちにとって、その文化はなかなか吸収することが困難である。しかしギリシァ神話やヴェルギリウスも、西洋の知識階級にとっては共通の知識なのである。私はロンドンを訪れた際、テムズ川ぞいにある議事堂からテイト・ギャラリイまで実際に歩いてみて、無料の入場料に感動しながら、金枝篇の冒頭に紹介されたターナーの金枝の絵を見つめて、こうした幸運を得られたことに感謝し、しばしの時を忘れて過ごしたことであった。

 

ギリシァ古典期の神話記者によると、幼児のゼウスが育てられたのは、クレタ島のイデ山(樹の茂る山の意)である。ゼウスは生まれるとすぐ、貪り食おうとつけねらう父クロノスに呑みこまれないように、父から遠くに隠され、三人のニンフに守られて育った。三人のニンフとはクレタ島の王メリッサス(養蜂者)の娘アドラスティアとイオ、そして山羊のニンフ、アマルティアであった。つまり乳と蜂蜜で養われたのである。成人となったゼウスは、後に感謝をこめてアマルティアを星々の間に置いた。これが山羊座である。

 

古代ギリシァの起源期の王たちは力が衰えてくると儀式に則って殺されていった。クレタ人にとってゼウスは毎年生れ、死んでいった。それは彼が植物の神だったからである。ゼウスは晩冬、春の直前まで落葉しないオークの神であった。後にその形象は不死の神々が構成するオリュンポスの神話体系の一員となるのだが、クレタ島には、エトナ山の頂上までオークの森が覆っていて、「クレタ人のゼウス」と呼ぶ樹木神がいたのである。

もともと真の樹木神とは必ず女神であった。それは大地母神、すべての食物の根源的な源である植物の女主人であり、乳ではち切れんばかりの胸をさしだす姿で描かれる(トルコのエフェソスの博物館にはアルテミスの名で知られている地母神像が展示されている。)この女神はクレタではゼウスの母、レアと同一視されてきた。レアはゼウスの恋人とも伝えられている。ギリシァ神話によればゼウスの妻はヘラである。ヘラはレアの特徴を受けついでいる。レアからヘラへの交替は、時代の流れと共に交替した三つの民族、ペラスゴイ人、エーゲ人、ギリシァ人の信仰を表している。原住民の崇拝と侵略者によって持ち込まれた崇拝の強制的な統合を表しているのである。女神の婿に過ぎなかった夫に従属を強いられるからこそ、ヘラは夫に対して頻繁に敵意を示す。これは偉大なる女神の崇拝者たちが、女神を押し退けて入ってきた侵入者に対してみせた抵抗の名残であろう。

古代人たちはオークの樹の効用を賞賛している。まずオークは人間最初の食物とされるドングリの実をつける。飢饉の際には18世紀まで、これを乾燥させて皮を除き、細かく挽いてパンを作った。そのまま焼いても食べられるが、このドングリはタンニン味がなく、甘みがあった。特にホーリーオークの変種の実はギリシァとスペインの果樹園で今も栽培されている。イタリアでも古代ローマの七つの丘はジュピターに捧げられたオークの森で覆われていた。カピトリウムの丘の上ではオークの樹のそばにジュピターの最初の神殿がロムルスによって建設された。ローマの勝利をたたえる凱旋の際には、皇帝や将軍たちの頭上にオークの王冠が掲げられた。カエリウスの丘はオークの森の山と呼ばれ、ジュピターをこの樹の神として信仰していたが、その近くの神殿はオークの木立に囲まれ、巫女たちによって永遠の火としてこの樹がくべられていた。

キリスト教以前の時代には、オークの樹に対する信仰はヨーロッパ全土に広がっていた。フランス、ドイツ、イギリスの泥炭層からは、巨大なオークの樹が発見されている。有史時代になってもなお驚異的なオークの樹(幹の直径 10m、樹齢2000年を越える)があったことを植物学者は記録している。

ゲルマニアに侵入したローマ人たちは、広大なオークの森を見て驚きと恐怖をすら感じた。巨大なオークの樹を見て、ローマ人は「オークは世界の始まり」からあり、ほとんど不死ともいうべきものだと思ったが、ゲルマン人にはなおさらそうであったろう。彼らはオークを聖なる祖先として、創世にまでさかのぼる地上最古の生き物として崇めたのである。

スラブ人にとってオークは雷神の聖なる樹であった。古スラブ人は雷の創造者である唯一神がすべてに君臨すると信じ、さまざまな生贄を捧げていたという。そしてこの神を称えるためにオークの火を絶やさなかった。もしこの火が消えるようなことがあると、その役目の者は殺された。裁判所はオークの樹の陰に置かれた。これはケルト人でもゲルマン人でも同じで、10世紀にもキリスト教化されたスラブ人たちは、まだオークに供物を捧げる儀式を行っていた。

ケルト人もゼウスを崇拝していたが、ゼウスのケルト的姿は巨大なオークの樹であったという。ケルト人は文字を持たなかったから、その宗教は断片的で、推測の域を出ず、ケルト人の神がどんな神であったか正確には分らないのが、ドルイド僧(神官)によって行われる儀式は、オークに生えたヤドリギと宿主のオークほど神聖なものはなく、宗教儀式には必ずその葉を用いたと言う。オークに寄生するヤドリギが発見されると、月の初めに厳かな儀式によってヤドリギが摘み取られた。ドルイド僧は樹の根元に生贄と聖餐を用意し、角に縄をつけた二頭の白い牡牛を挽いてくる。白服の僧が樹に登り、金の鉈鎌でヤドリギを刈り取り、白布に受ける。僧たちは生贄を捧げ、ヤドリギの贈物が恵みを与えるようにと神に祈りを捧げた。(プリニウスの博物誌)

ガリア人はヤドリギを「すべてを癒すもの」と呼んでいたが、これはケルト人の方言に残っている。アイルランド語やゲール語ではヤドリギは「万能薬」である。その煎薬も万能薬として知られている薬草である。特に癲癇の妙薬といわれているのは、ヤドリギが高枝に寄生して地に落ちることがないからだろうとフレイザーは説明している。またヤドリギは降圧剤、血管拡張剤、強心剤、外傷剤にも使われている。不妊症に利くとされているのはヤドリギ(シロミノヤドリギ)の実が白く粘液質であることからきているのであろう。この実は実際は鳥によって運ばれるのであるが、古代人は雷のように天から降ってくる、あるいは雷と共に空から降ってくると信じた。11月から12月にかけて、オークは葉を落として枯れたようになる中で、ヤドリギが深い緑に輝き、白くて半透明な丸い実を成熟させるのは、11月から12月にかけてである。崇拝者たちは、神の生命力がヤドリギの中で生き続けているしるしと思ったのであろう。ヤドリギが再生のシンボルと考えられたことが分る。

現代フランスで新年の再生が図られるのは12月31日の真夜中の12時であって、たくさんの実を付けて刈り取られたヤドリギの下で、新年の挨拶が交わされる。目下の者や年少者は大晦日そうした挨拶をヤドリギとともに年長者、親、雇主に捧げ、彼らからは贈物を貰うのである。

このヤドリギは部屋の入り口のドアの上に飾られる。その木の下では、男性はいかなる女性に接吻しても許される、という習俗が残っている。それ故、多くの女性はその木の下を通る時には、緊張してしまうのである。

『金枝篇』(きんしへん、英: The Golden Bough)はイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギのことで、この書を書いた発端が、イタリアのネーミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。 完成までに40年以上かかり、フレイザーの半生を費やした全13巻から成る大著である。この著書はあまりにも大部で浩瀚に過ぎるため、一般読者にも広く読まれることを望んだフレイザー自身によって、1922年に理論面の記述を残して膨大な例証や参考文献を省略した全1巻の簡約本が刊行されている。