奇祭御柱祭。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

奇祭御柱祭

奇祭御柱祭

寅年と酉年の六年ごとに、本宮、前宮、秋宮。春宮の計16本の御柱(おんばしら)が立て替えられる。
これには樹齢 200年以上のモミの木が選ばれる。

(山出し)

(木落とし)上社…四月上旬 下社…四月中旬

100mもの急斜面を、御柱に人を乗せたまま曳き下ろす壮絶極まる神事である。見物の群は、朝早くから崖野間割に集まる。巨木が崖から落とされ、柱に乗った人が振り落とされる。当然怪我人が出たり、死者が出るここともある。落とされても男たちは夢中で柱にしがみついて、柱と一体になって走り下る。

(川渡し)…宮川

(曳き建て)上社…五月上旬 下社…五月中旬一ケ月後

御旅所(おたびじょ)に止まっていた御柱を神社まで曳いていく。柱の根元に穴を開け、太さ30p、長さ 100mの二本の曳き綱に曳き子は自分の綱をかけ、木遣り音頭に励まされ、打ち振るオンベ(御幣)に力を合わせて曳く。道中の家々は盛大な料理を用意し、樽酒を抜いて冷や酒を振る舞う。昼休みには賑やかな酒宴が始まる。この祭のため、諏訪の人たちはこの年普請や結婚式をしない。

柱を所定の位置に建てるのがラストシーン。この時柱の頭は鋭角三角形に削られる。

御柱祭の意味…柱に御をつけて尊敬したのは何故か?

(一)御柱は神が降臨する所

伊勢神宮でも山から切り出した檜の柱を曳く。神社は二十年毎に建て替えられるので、その建築用材を車に乗せて丁寧に運ぶのである。それに対して、諏訪神社の御柱とはその四方に建てる四本のモミの木柱で、これを地面に引っ張る。この二つの行事には明らかに根本的な違いがある。

もともと神は神社の中に定住するものではなかった。最初神は海の彼方からやってくるものと信じられた。しかし神に奉仕する住民の多くが、海岸近くから内陸に移転するようになると、神は山奥からやってくるものと信じられるようになった。(祭の初め、神主は神を山から下ろし、祭が終ると神はまた山にお帰り願う)

このようなわけで、神をとどめおくための建物は必要でなかった。そこには巨大な巌(いわ)くら座や、老神木や、それらに囲まれた、森厳な神域ともいうべきものだけがあった。そこに入ると、人は何か身体がひき締まるような恐れを抱いた。

今も沖縄には御嶽(うたき)という独特の聖地だけがあり、祠や社殿はない。その奥には神の鎮座するイビというもっとも神聖な場所がみられる。

しかし仏教が入ってくると、立派な仏教の寺院建築が建てられるようになる。それで寺院に対抗するために神社が建設されるようになった。

諏訪神社の四本の柱とは、このようにして、神社が建てられる前の、そうした神域の所在を示すものであった。つまり御柱とは、神が降臨するための目標となるものであって、そこで神事が奉斎される神聖な場所を示すものであった。

しかし神社にいったん建物が作られ、拝殿まで建てられるようになると、四本の柱は意義が見失われてしまった。まして川や崖から突き落としたり、柱の先端を三角に削る曳き建てをして、御柱祭に何か意味があるような力を入れることになると、「御柱が神になる」などと称する考えをいう者が出て来た。里曳きの時に歌う木遣にそのような文句があるが、それは明らかに誤解である。

(二)原始的な性格と海神の祭

諏訪大社の御柱の材料は周囲の山から切り出される「もみ」の大木である。途中「木落とし」などという、わざと乱暴な道中を経て、縄をつけてゆっくりと引きずってくる。このような御柱の曳行に、何か特徴となるものがある。柱は綱だけで曳く。てこもいれず、車も使わない。当然のことながら、柱は皮が剥け、傷だらけとなるが意に介しない。神になると称する柱の上には、大勢の人が土足で乗りたがり、崖から逆落としする時などは特にそうで、先頭の地位を争うほどである。曳行する柱の上で先頭に立つ者は、船頭の意識を持つ者と考えられる。このような姿と、春秋宮の遷座祭では、車のない御座船が芝船の名で曳行される姿を考えることで、諏訪神社の性格と特徴を見いだすことができるのではないだろうか。この御柱の曳行は、周囲の住民が大変な栄誉をもって行うにも拘らず丁寧に扱われていない。これは御柱の性格に対して甚だしく矛盾している。御柱の取扱はいかにも荒々しく原始的である。お船祭りも船の形をした神座を、車を使わずただ引っぱるだけであるから、諏訪には車という便利な道具に対する強い対抗意識があるのではないかとまで感じられるが、それは、車の使用以前の姿なのである。

つまり諏訪神社の神は明らかに海神であり、今もその特徴を失わないでいるのである。松本市の北の穂高市には穂高神社があり、そこの宝蔵には大船が保存されている。それ故、この神社を奉斎してきた安曇族は、モリヤ族と同族ではなかったかと思われる。

その昔、出雲、または宗像から海を渡って移住してきたのは海人族である。彼等は日本海を経て(直江津→犀川沿い→長野→穂高)来た者と、太平洋を渡って(天竜川沿いに北上→諏訪湖)到着した者と二種類の海人族がいたと思われる。(伊勢湾に渥美半島があり、長野県北部に安曇野があることは、海人族の経路と重要な関係があろう)

諏訪神社の発展

諏訪神社が全国に祭られるようになったのは、北条氏がその神を幕府の守護神として祭った中世以後である。北条氏の一族が信濃の守護や地頭になったことにも由来するが、健御名方神が最後まで抵抗したという神話の内容からも来ている。特に諏訪の神が軍神としてとしての名を高からしめたのは、幕府の重臣となった諏訪氏はじめ信濃武士が望月の牧などの良馬を背景に、騎射などの武技に優れ、これを諏訪大明神の加護と考えたからであった。

諏訪大明神は狩の神として、四つの御狩神事を行う。このうち悪疫や病虫害を払うため、神前で流鏑馬(やぶさめ)を行う端午の節句や、八島の御射山社に贄(にえ)を捧げ、巻狩りをして台風の平穏無事を祈る七月二十七日の御射山祭は特に重きをなし、後者は幕府下知(げち)の武技を競う祭典となり、有名な氏族が集まった。このようにして、参詣に訪れた各地の武将は自分の領地に諏訪大明神を勧請(かんじょう)し、全国に諏訪神社が広まったのである。