伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、今回は「島木健作 その他」です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け・・・2014年4月10日没

島木健作 その他

島木健作 その他

昨年(2011年)の秋、息子夫婦と旅行して伊豆の修善寺温泉を訪れた。この温泉は川の中から沸き出ている。今は足湯だけにしているが、熊野の湯の峰温泉などと共に、日本の古くて貴重な温泉の出発点を示すものと考えられる。そこの川の少し上流の方に歩いて行くと、孟宗竹の30米もあるかと思われるすばらしい竹林の中を通る道の先に、養家の比企氏と北条氏との権力争いのため、ここに幽閉されていた後討たれた源頼家の墓があり、島木健作の赤蛙公園も残っている。

島木健作は今ではもうとっくに忘れられて、覚えている人は少ないだろう。しかし私にとっては忘れることのできない作家の一人なのである。

太平洋戦争が終って、そろそろ戦後の復活が考えられた頃、島木健作の小品「赤蛙」が中学三年の国語の教科書に取り入れられた。痩せてか弱そうな一匹の「赤蛙」が川を横切ろうとして、渡り切るもう少しの所で力を失い、力尽きて流されてしまった。その姿が、この地で静養していた作家によって克明に観察されていたのである。戦争で喪失しかけた力をどうやって復活させるか、国語教育に要請されることがあったのだろう。彼は共産党出身であったから、政治的な配慮がされて、その時だけでもう次の機会には教科書には載らなくなってしまった。

島木健作は小林多喜二と同様共産党出身のプロレタリア文学作家である。日本が敗戦の痛手を抱えて、これからどうすればよいかという態度が模索されていた時、同時に肺を患って、ここの修善寺で静養していたこの作家に、赤蛙の哀れな姿が焼き付けられた。その時の彼の精神的状態が、赤蛙の状態と似ていたのである。非合法運動として時の権力と戦い、刀折れ矢尽きて投獄され、ついには健康を害して万策尽き、転向を余儀なくされてしまった自分が、向こう岸に泳ぎ付く前についに倒れた赤蛙の運命に重ねて写し出されたのである。そこには、時代社会を懸命に生きようと努力した人の心が描かれている。

島木健作の代表的な長編小説は「生活の探求」である。私の戦後の読書経験の中では、その作品はいつまでも忘れられない。この頃の小説は戦争を賛美し謳歌する作品ばかりが以前から多く書店に残り、読みたいと思う文学書は全くなかったから、私は「生活の探求」などという名の本には夢中になって飛び付いた。しかし漠然として、掴み所はないようにも思われた。

私は大学に復帰してから、上級生の研究クラブにつき合わされ、新しい作家の例として、またその時の教授と少し関係のあった堀辰雄の文を読んだ。彼が奈良周辺の寺(浄瑠璃寺など)を訪れた時の、馬酔木(あせび)を書いてある所などはすこし好奇心を持ったが、内容にはこれといったものがなく、他の文ものんびりしているように感じられた。堀辰雄の心境が、その時の私の精神状況と全くかみ合わなかったのである。私は上級生たちとも、また学問を指導する教授たちとも合わないことを感じ取っていた。

私は思い切って島木健作を持ち出してみたが、上級生はこれといった興味を示さなかった。その時の私の精神状況はまるで先輩たちと違っていたのだろう。私は孤独を感じ、「何のために学校に来ているのだろう」としきりに思った。建学の象徴でもある福沢諭吉に対しても、私は初めから勝海舟の生き方に味方し、賛成していたくらいだから、むしろ何の関心もなく、むしろもどかしい位に思えた。勝海舟に対立して発表された「痩我慢の説」に対しても、歴史の解釈から考えてまったく賛成する余地がなかった。

今は福沢諭吉の唱えた「独立自尊」の説…その歴史的価値に対して、私は少し理解できるようになったが、戦後のその時には分らなかった。私は狭くて浅い自分の学力を恥じて何も言わないできたが、実は明治の初めの頃の歴史について、何も知る所がなかった…というより、何も教えられていなかった。

私は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで、明治の強い官僚を目指した若者たちの「志」を知ったが、その裏側には政治権力の強力な意思が働いていることを知り、農民や一般労働者たちにとっては、かえって江戸時代よりもひどい圧制が強いられていたこともわかった。秩父困民党のことなども全く知らされることなどなかったが、戦後の今になって、私たちは政治権力の一方的な教えに盲目的に従っていたことに気付いたのである。

明治の藩閥政府は、天皇を統一の中心とする政治の方針によって日本国民の思想をまとめ上げようとした。教育勅語の普及は、その政府の強力な政治の方針を教えるものであり、これによって政府は戦争を遂行しようとした。それに対して民権思想は政権の方針に異を唱えるものとして弾圧され、足尾銅山の毒物垂れ流し問題などは闇に葬られた。福沢諭吉の「独立自尊」の説は、日本人が国際的に生きていくための貴重な精神であるのだが、その意義などは喧伝されずに終わった。塾員にも十分理解されずに過ぎたのではないだろうか。(私事で申し訳ないが、昨年末腰や背中上脚など打撲し、長く動けないで寝ている期間を過ごした。一生の終り頃を無爲にしたと思うと残念でたまらないが、自転車で電信柱にぶつかって危険であった事もある。そんな老人のために路上の柱を撤去してもらいたいと願う者であるが、用心して悔いなく過ごすのが一番である。不覚を取らぬことが肝心々々)