諏訪大社の謎。伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話です。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

諏訪大社の謎

諏訪大社の謎(全国に5600余の末社を持つ総本社)

上社と下社と諏訪湖をはさんで四つも大社が建てられているが、他の神社にはない不思議な相違点を持っている。

上社

諏訪湖の南、健御名方神(たけみなかたのかみ)を祭る。この神はどこから来たか?

◎本宮

(諏訪市中洲宮山 隣に神宮時跡がある) 四方にモミの木の御柱が立つ。柱はなぜ尊敬されているのか? 拝殿の先の土壇の斎庭(ゆにわ)には硯石という磐座(いわくら)(神の降臨する所)があり、拝殿はあるが神殿はない。神殿がないのはなぜか?

◎前宮(まえみや)(茅野市宮川)

周辺は「神原(ごうばら)」と呼ばれた。 十間廊(御頭祭が行われる所、鹿などの頭が生け贄として捧げられている)の先に内御玉殿(宝殿)、その100m奥に、霊石の上に本宮とは違って本殿がある。本殿の四方に樹木が植えられているのは、御柱(おんばしら)と同じようにみえるが、これはどう考えていいのか?

◎山宮=御射山(みさやま)社(八ツ岳の山裾富士見町)

下社

諏訪湖の北。下諏訪町、建御名方神の妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祭る。

◎秋宮(下諏訪旧中仙道沿い)

四方にモミの御柱が立っている。 樹齢千年に近い杉の巨木が立つ境内。神楽殿の前に拝殿(重要文化財)がある。 斎庭に二棟の宝殿。神殿はなくイチイの巨木が神木になっている。 八月一日に遷座(せんざ)祭をして一月末まで奉齋する。この祭の性格は?

◎春宮(下諏訪)

四方にモミの御柱。やはり神殿がない。神木は杉。背後に砥(と)川が流れている、これは農業に大切な水を司る神としての特徴を持っている。水源は八島湿原と和田峠から出て諏訪湖に入る。 二月一日に遷座祭をして七月末まで奉齋する。本宮との違いは?

諏訪神社の奉祀者

(一)謎の先住民モリヤ族

諏訪地方の神体山である守屋山の麓には、先住民のモリヤ族という呪術集団がいたと伝えられている。大和の三輪山を神体山とする物部氏は、石上(いそのかみ)神宮を氏神として奉祀したところから、モリヤ族とは物部氏の系譜につながる人たちであり、諏訪盆地を神聖な地として移住したのではないかと思われる。それは上社境内にあるフネ古墳が作られた五世紀中頃のことであったろうか。

前宮は本宮と違って小さく、周囲に四本の樹木が植えられている。この形は朝鮮から移入されたもので、本宮の前身の姿をとどめて居るのではないかと見られる。モリヤ族の出身は朝鮮系であったのだろうか?

しかし諏訪本宮の祭神は健御名方神(たけみなかたのかみ)である。古事記によれば、この神は出雲の稲佐(いなさ)のたけ浜で健御雷神(たけみかづちのかみ)との力比べに敗れ、科野(しなの)の国州羽(すわ)の海まで逃げてつかまり、殺されようとしたが、命乞いをして諏訪以外の地には行かないと誓約をして許されたという。諏訪ではこの健御名方神が先住の洩矢(もれや)の神を征服したと伝えられている。健御名方神の出身は出雲である。

中国の長江下流で古くから稲の水耕栽培を行っていた農民の子孫は、中国動乱の影響をうけて、直接、または朝鮮を経て日本に渡来し、新しい弥生時代の幕開けを促した。出雲族はそのような弥生時代文化の発展によるものであろう。しかし後に九州からやってきた大和民族との武力抗争に敗れて出雲地方に逼塞(ひっそく)を余儀なくされた。しかしその一部は逃れて安曇野や諏訪地方にもやってきたのではないだろうか。彼等出雲の海人族や安曇族は、内陸の湖や水運によって幾重にも移住したと思われる。そして内陸にも長らく宗像海神の信仰を伝えた。

(二)大祝

後世、新しい支配者として登場したのは大祝(おおほうり)という神主職である。
上社の大祝…諏訪氏
下社の大祝…金(かな)刺(ざし)氏

先住民のモリヤ族は滅亡したわけではない。守矢を姓として出雲族に従い、上社の神長官となって明治維新まで子孫が世襲した。守谷神長官は神の依坐(よりまし)(神霊が取り付く人間)である。呪術者として神がかりして神意を語り、氏人を統率した。その子孫は今も茅野市高部に住んでいる。

金刺氏は神武天皇の皇子である八井耳命の孫で、科野国造(しなのくにのみやつこ)となった九州阿蘇神社の祭神の武五百建命(たけいほたけるのみこと)の子孫、州羽(すわ)郡司となった金刺舎人(とねり)とみられる。大和朝廷の一勢力として諏訪に入り、湖北の平地に形成されていた水稲農耕的な祭政体を包みこんで、金刺祭政体を成立させたのであろう。秋宮境内の青塚という七世紀末の前方後円墳は、その勢威を誇示したものであろうか。金刺氏は健御名方神の化身と称して、子孫を対岸の守屋山の麓に送り込み、平安初期の頃から大祝と称して守谷氏をその支配下に収めたのである。洩矢の神を征服したという伝承はこのことと関係があるのかもしれない。

なお青塚の「あお」とは、本来銅の精練に関係がある名である。そのことから見ると、諏訪に移住した出雲族は、もともと朝鮮から渡来した技術者を含んでいた集団であったのかもしれない。昭和59年、松江市西方の荒神谷、加茂岩倉遺跡で発掘された大量の銅鐸、銅矛、銅劍等の青銅器は、出雲に多くの銅精練の技術者がいたことを物語っている。

上社下社の神名が文献に見えるのは、続日本後紀(しょくにほんこうき)の承和九年(842)であるが、諏訪の神としては日本書記持統五年(691)に信濃須波水内神という名で記されている。この神は健御名方神とは違う。ミナカタの名はムナカタに由来し、宗像(むなかた)の三女神と関係があるとする説がある。金刺氏の出自は九州であるから、諏訪湖に宗像の水神を勧請(かんじょう)したのかもしれない。そのミナカタに荒々しい水神の猛々しさからタケがついて、タケミナカタとなると荒々しい武神を連想させる。藤原氏はこれに対して、祖神であるタケミカヅチを称揚させるために古事記にタケミナカタとの対決をとりあげたのであろうか。

下社の祭神八坂刀売は安曇野に鎮座する穂高神社の祭神穂高見命の子で、穂高見命は海神綿津見神の子である。九州方面から移住した海人族である安曇族が祭ったという。金刺氏は宗像の神と同族の女神で、九州にゆかりのあるヤサカトメを安曇野から諏訪北岸の鎮守に迎え、健御名方の妃神としたのであろう。

鎌倉時代になると、上社は大祝に15歳以下の童男をたて、惣領家は武士として諏訪氏を名乗るようになった。金刺氏と共に鎌倉幕府の御家人となってなったのである。室町時代になると上下社の対立抗争が激化し、金刺氏は永正15年(1518)に滅亡した。戦国時代、諏訪氏は武田氏に屈服したが、徳川時代には復帰して高島藩主となり、高島城を居城として幕末まで城主となって君臨した。その子孫は上社に近い宮田渡に現存する。