伊勢物語を読むの著者宇都木敏郎が綴る徒然話、自分の名前宇都木の謎に迫る。世の中は驚きに満ち、日常の全てに興味がそそられます。人生を勉強と追求に掛け、入ってくる知識よりも消えて行く記憶が勝っても尚、その意欲は変わらない。

宇都木という名字

宇都木という名字

1.かくれキリシタンの名字

以前のことになるが、ある教え子の女性が結婚して、住所が変ったことと、「出牛(でぎゅう)」 という新名字になったという知らせが届いた。私はその「出牛」という聞き慣れない名字に輿味を持って詳しく知りたいと思ったが、果たせないでいるうちに、テレビで中国地方に同じ地名があることを知った。

最近その教え子たちの同窓会があり、私は招かれて行った際、思いきって尋ねてみたら、やはりそのご主人は中国地方から移住してきた人であり、キリスト教に関係があるということであった。明治初年この地方(長川、津和野、福山の各藩)には、キリスト教の弾圧や教徒の逮捕、投獄等があったことがよく知られている。

そこで気付いたのであるが、出牛は「でぎゅう」ではなく、「でうし」ではないかということである。「でうし」は「デウス」に基因する。「デウス」はいうまでもなくキリスト教の神であるから、その地方の人たちはキリシタン教徒の子孫として、ひそかにその名字を「でぎゅう」と呼ぶことによって信仰の意図を隠したのである。

最近、宇宙研究所に入った人に星出さんという名の人がいる。この「ホンデ」という名字も「デホン」と逆に読むと、デオシ…デオスと、デウスに近くなり、やはりこれも信仰心を隠したのではないかと思う。

私は何年か前に長崎県の五島列島に旅行して、この地方にはキリスト教の小教会が数多く建てられて居ることを知った。また船でなければ行けない海辺の洞窟内に、白くてきれいなマリア像が隠されて居ることも知って驚いた。「出牛」という見慣れない名字や、「星出」といういかにも新しく作ったような名字を名乗った心のうちには、信仰のあかしを残しておきたいという希望が強くあることを知って、私は大きな感動を覚えたのである。

2.植物の地名からとった名字

私の名字は「宇都木」であり、このことについて、私は前から強いこだわりを持ち続けている。

「うつぎ」は畑の境界を示すものとして多く植えられた植物である。まさに農民の身近にある植物であった。

宇都木よりも宇津木と書く方が多いので、都はよく津と間違えて書かれるが、津は船の出入りする人江、都は内陸に建てられた宮の地を示すから、漢字の当て方としては、津よりも都のほうがはるかによい。私は漢字を当てた人はよく考えたものだと思ったのであるが、それは他の人にはあまり興味がないことだろう。

ウツギ ユキノシタ科

この「うつぎ」は地名から取った名字である。「うつぎ」が沢山生え、もしくはそれを沢山挿し木して増やした土地に住んでいた者に対して「うつぎ」を名乗ったと思われる。この木(ユキノシタ科)は枝を切って挿し木をすれば容易に根がつく。「うつぎ」の名を持った農民たちは関東の各地に住み、住居や畑に「うつぎ」を増やしていたのではないだろうか。下総の猿島郡の久能(くのう)という所に行くと、その名字を持つ者が圧倒的に多い。私の祖父はそこから茨城県の古河市に進出して商人となった。「こが」は空閑(くうかん)地のことで、昔は葦などの生い茂る広い荒蕪地であったことからその名がついたのであろう。

古河は現在渡良瀬川という支流が利根川に北から流れ込んでいる所で、万葉集には次の民謡が残っている。

まくらがの許我の渡りの柄梶(からかぢ)の音高しもよ寝なへ児ゆゑに (巻14 3555)

(まくらがの、その「こが」の渡り場の柄梶仕立ての船の音ではないが、評判高くたったことよ。抱き寝をしない娘だのに、その娘のために。)

逢はずして行かば惜しけむまくらがの詐我漕ぐ船に君も逢はぬかも (巻14 3558)

(逢わないで行ったら、残り惜しかろう。だから、このまくらがの「こが」を漕ぐ船で、あの人が逢ってくれればよいが。)

「まくらが」は今では何処にあったか分らない。そこに渡し場があって、「ギイッ、ギイッ」という渡船の梶の高い音が四方に大きく聞こえていたらしい。

利根川はもと東京湾に流れ込む川で、関東地方の他の川も常に洪水を多く起こして流域が変わり、渡し場は現在は、はっきり特定することができない。

当時の農業はこれらの川の水を一時せき止め、水田や畑を作った。またこの地方の農民たちは農繁期以外は、時に武器を持って戦陣に駆り出されたことが多かったようである。平将門の生地や戦没地は古河に近い所である。その後名字の研究書から明らかにされているのは、「うつぎ」を名乗る農民たちが仕えた主人は鎌倉幕府に出仕した武士で、梶原氏であった。(梶原景時、源太景季などの名が知られている)梶原氏は時には鎌倉武士団の軍監となって源頼朝に仕え、平氏を討ちに西国に赴いたこともあったが、後に北条氏との勢力争いに負け、関東地方に分散して元の農民にかえった。「梶」もやはり「かじのき」という木の名で、梶原は地名である。梶の葉の模様を紋とした者に長野県の諏訪湖の神を俸ずる人たちがいる。

現在私の住居の近くの地主に「漆原(うるしばら)」という名の人がいる。明治の頃まではこの辺には漆の木が多く植えられていたらしい。漆は漆器の塗料として有用な商品であり、現金収入の見越せる植物として奨励された。私が昭和三十年に住居を構えた時に、一本だけ漆の木が残っていた。皮をはぐと黒い汁が出て幹は真っ黒になった。「漆原」も地名から取った名字である。

3.「うつぎ」と空木

宇都木の名字は「うつぎ」という低木の植物から取ったものであり、そこに住む農民が自分の名字としたのである。

卯の花

その「うつぎ」という植物名は何からきたのだろうか。それは「うつろな木」の意味であるというのが定説となっている。枝を切ってみると分るのだが、中が中空になっていて、芯がないという木の例では珍しい。「ふき」や「ねぎ」の葉柄も中空だが、これは草本科であるから比較にならない。

しかしこの「空木」から命名されたという説には、私は異論がある。

「うつぎ」はもともと「卯の花」という名がついていた。「真っ白い花」、つまり白兎のような白い花が咲く木、という意味である。しかしつい最近まで「卯の花」という名で呼んでいて、「うつぎ」とは呼ばれなかった。

卯の花の匂う垣根に ほととぎすはやも来鳴きて 忍びねもらす 夏は来ぬ

この小学唱歌は昭和の初め頃までは歌われていたが、今ではもうもっと派手な花におされて、「卯の花」とは何か分らなくなり、この歌も歌われなくなってしまった。卯の花の咲く旧暦四月が卯月(卯の花月)であり、卯の花は卯月(うづき)の象徴である。空木というのは理論的な命名であり、昔の人はそのような命名はしない。

「うつぎ」という名は「打つ木」から出た、というのが私の考えである。

4.卯槌と卯杖

平安時代の宮中の年中行事に、卯槌、卯杖というものが登場する。枕草子の「雪の山」の段(職(しき)の御曹司(みぞうし)におはしますころ)をみると、中宮定子の所にこれらが贈られてきた、と書かれている。卯槌は卯杖と共に正月の初めの卯の日に、天皇、皇后、皇太子に献上される。これを高貴な方の御帳台(みちょうだい)という御座所の柱に掛けておいて魔除けとした。献上する時は「卯杖のほがひ」という寿詞(よごと)を奏したことが知られている。また枕草子の「心ちよげなるもの」の段には、「卯杖の法師」というのが見える。宮中以外の所でも、卯杖を携え、「卯杖のほがひ」の祝言を唱えて京の街を回る法師がいた。熱田神宮では呪文を唱えながら、「卯杖の舞」を舞う神事が神前で行われていた。

卯槌

宮中に献じられた卯杖は柊、桃、梅等の呪力を持つと信じられる木で作った長さ160cmほどの棒である。これを2〜4本合わせ、上部を紙で包み、五色の糸で巻いて束ねる。その頭部を紙で包んで、ヤブコウジ、ヒカゲノカズラ、ヤブラシなどをつけて飾った。卯槌は卯杖が元になってできたのであろう。主に桃の木を材料にし、3cm角、長さ9cmくらいの直方体の上下の中央に穴を開け、五色の糸を通して、1.5mほどの長さに垂らしておく。正月の初めの卯の日に大学寮、後には六衛府で作り、朝廷に奉った。

桃は仙境の霊果である。古事記にはヨミの国を訪れたイザナギが逃げ帰る時、追いかけてきた雷神に桃の実を投げ付けて撃退したという話が伝えられている。

卯杖

卯槌、卯杖は正月の卯の日に献上するから、卯の名がついたのであろうか。愛知県の設楽(しだら)地方に伝わる白山の祭りには、神聖な斎場を設け、そこに神々を招くのであるが、それにも卯の日が選ばれる。卯は真っ白の色を表すことで卯の日が選ばれ、神聖な神の来臨に通するとされたのだろうか。十二支は中国から伝わった暦法上の知識であるから、そこに源があるのかもしれない。

中国の漢の時代に、官吏たちが腰につけていたものに剛卯(ごうぼう)というものがあり、これが卯槌のもとであるという説もある。漢の皇室の姓は劉といい、これを分けて書くと「卯」「金」「刀」となる。その卯を劉にとり、剛卯と書くと、強い漢の意味になる。

剛卯は金、玉、桃の木等で作る。卵槌は桃や柊、梅等の木を使い、呪い(まじない)の文を刻みつけた。桃はもともと日本にはなく、邪悪なものに打ち勝つ霊力を持つものとして中国から伝わった。中国では腰につけ、日本では高貴な方の周囲に置いて魔除けとする。その違いはあるが、発揮する偉力の信仰という点では同じものがあろう。

6.地を打つ

卯槌、卯杖ともに正月の飾り物のような感じになるが、その名の示す通り、槌は叩くもの、杖は突くものとして、そこに本来の用途があったのではないだろうか。大黒天の持つ「打ち出の小槌」は幸福を振り出すと信じられた霊妙な道具である。一寸法師のお伽話では、鬼から奪った「打ちでの小槌」の力によって大きな身体が与えられた。卯槌、卯杖はどちらも「打つ」用具である。

前述の設楽地方の花祭りは、年末から正月にかけて行われるが、そこに出てくる鬼は山神に仕える山人で、「へんべ」を踏みながら山から持ってくる杖で地面を突き、農業に災いをなす悪霊を押える動作を繰り返す。このことから考え合わせると、卯杖は呪力を持つと信じられた木の力によって、打ち、叩き、突いて、地面に潜む邪気悪霊を追い払う農業の祭りに源を発するものであったろう。

このようにして、卯杖はもと農業に関する呪具として出発し、農家以外の所でも神霊の持つ槌の威力にまで発展して、室内に飾り、吊しておく魔除けとなったのであろうと思われる。

卯の花の木の枝は中空である。そこからこの木は卯杖または卯槌と同様の形状や性格を持っものと考えられたに違いない。前述のように、この木は挿し木として抜群の有効性を持っている。それだけ打つ木と同様の強い生命力、繁殖力を持つものと信じられたのではないだろうか。

卯の花の木を植えて名字とした農民の心には、農業を害する、目に見えぬ外敵の魔物を追放し、農業を守る強い信仰心が潜んでいたのではないかと思う。それ故、卯の花の木は「卯杖、卯槌」等の打つ木と同じ外観を持つものとして、「打つ木」の名を得ることになったのではないだろうか。